林檎(第1回)

僕たち三人がT市の駅に降り立ったのは真夏の昼下がりのことだった。僕たち三人をおろすと汽車はかげろうにゆれて緩やかなカーブの中へと消えていった。向こう側のホームでは駅員が一人、汗をぬぐいながらホースで水をまいている。僕たちはバッグをベンチにおいて顔を見合わせた。風はまったく吹いておらずじっとしているだけで汗がにじんでくる。僕がタバコに火をつけるとその煙はぽかりと空中に浮遊したままで動こうとしない。蝉の声の洪水がいやおうなしに鼓膜を刺激する。照りつける日差しはホームに屋根の影を鮮明に落としている。

「行こうか」

山本がぽつりと言った。今朝がた出発駅であいさつを交わした時の期待と不安の表情から期待だけが抜け落ちたような顔つきだった。確かに汽車の中でも県境の長いトンネルを抜けたあたりから僕たちの口数はめっきりと減っていた。瀬崎はバッグから一枚の小さな紙切れを取り出した。級友である笹山が渡してくれた笹山建設T市出張所へ行き先を記した書きなぐりの地図である。

駅の改札を抜けた僕たちは地図に従って歩き出した。県の名前をそのまま頂戴した市のはずなのにさびしげな町だった。駅前の通りは夏の暑さを避けるためか、人通りはなく町全体が静まり返っている。駅前には県と市の合同庁舎のビルが一つあるだけであとは低い軒並の商店が申し訳程度の続いているだけだった。駅からの通りはやがて緑に囲まれた公園まで続いている。日傘をさした老夫人がやってきて僕たちとすれ違いざまに会釈をした。僕たちは公園の片隅の神社の境内を抜けて目指す事務所の前までたどり着いた。

僕たちの級友である笹山がこの地でのアルバイトの話を持ちけたのは夏休み前の試験の済んだ後の酒の席だった。僕と山本、瀬崎の三人は当時から有名な貧乏学生で、僕に至っては親元からの仕送りもとある事情から途絶え、苦しい自活中の身の上だった。だから三人が集まると話題は所帯じみたものになってしまい、酒の席もとかく湿りがちだった。それを見るに見かねてか笹山がこう切り出したのだ。

「お前たち、休み中のアルバイトが決まってなかったら俺の親父の会社で人を探しているんだけどやってみないか?一日1万円くらいにはなるよ」

僕たち3人は一斉に笹山の顔を覗き込んで、仕事の内容を尋ねた。

「親父はT県で土建屋をやっているんだけど、T市にマンション建設の住み込みの仕事がある。工事は春から始まっていたんだがこの夏が正念場らしい。でもなかなか人が集まらなくて誰か紹介してくれないかと相談があったんだ。そんな酔狂なやつはいないと断ったんだけどね」

それから山本と瀬崎は執拗に笹山に仕事の内容を尋ねていたが、僕の耳にはもう届いていなかった。多くの友人に借金があり、夏休み前までに返済を迫られていたが果たせずじまいだった。ということで笹山の提案に対して僕は二つ返事で、山本と瀬崎もあまり気乗りしない様子だったが最後は不承不承引き受けた。

事務所に入ると、笹山の親父さんがいた。あいさつを澄ますと現場監督の青木さんという人を紹介してあとはよろしく、と自分は忙しそうに事務所を出て行った。青木さんは40代後半、がっちりとした体格で赤銅色に日焼けしていた。僕たちに非常に大雑把な仕事の説明をしてくれた。結局は現場にでて現場主任に言われたとおりに動いてくれればいい、というものだった。そのあまりの大雑把さに不安は解消するどころか、増幅しただけだった。僕たちは青木さんの運転する車に乗せられて現場へと向かった。

車はあっという間に市街地を抜けて急な上り坂を進んでいった。青木さんは運転しながらこんなことを話した。

「向こうではみんなと一緒にプレハブの建屋に寝泊まりしてもうもらうよ。気性の荒い連中だから最初は大変かもしれんがみんな根はいいやつばかりだからすぐに慣れると思うよ」

僕たちはこれでさらにふさぎこんで窓の外を眺めると、原生林特有の緑色が飛び込んできた。それは気味が悪いほどに美しい。やがて車は右折して砂利道に入ると、小高い山を切り開いた土地が広がり、車はその一角のプレハブの2階建ての建屋の前に停車した。まだマンションらしい建物の姿は見えない。青木さんは車から降りると建屋の入口にあるマイクを手にした。

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「安川、ちょっと来てくれ」

遠くで動いていた黄色のヘルメットが一つこちらに向かって歩き出した。安川と呼ばれた人は僕たちの前までくると青木さんは彼に言った。

「前に話したアルバイトの学生さんたちだ。よろしく頼むよ」

安川さんは小柄な人だったが、黒ぶちの眼鏡の奥で鋭い眼がまるで値踏みでもするように僕たち3人をじろりと舐めまわすよう見た。青木さんはマンションの完成図をボンネットに広げて僕たちに見せてくれた。8階建てのマンションが二つ立ち並び、その間に駐車場と公園が作られるのである。現在は山の斜面の切り出しと地ならしの最中とのことだった。安川さんは青木さんと何か仕事の相談を始めた。僕たち3人は工事現場を眺めた。ブルドーザーの低い音と作業する人たちの掛け合う声が独特の雰囲気を醸し出していた。山本が僕の耳元で小さな声で言った。

「助かったよ、まだ何にもできてなくて。昨日、高い鉄骨から落ちる夢をみたんだ。高いところだめなんだ。俺」

いやなことをいうやつだと僕は思った。でもここに着くまで抱いていた漠然とした不安はそんなものだった。後ろから青木さんの声がした。

「それじゃ、僕は戻るのでなにかあったら安川に相談して」

そう言い残すと青木さんの車は土ぼこりをたてながら走り去った。なんとなく置き去りにされたような気分だった。とにもかくにもこの時から1カ月のアルバイト生活が始まったわけである。