彼の名は。

テレビから煙草の宣伝がまったくなくなって久しい。テレビだけではない。新聞・雑誌の広告や街の看板でもほとんど見かけない。時代の流れには逆らえないが、愛煙家としては寂しい限りである。だいぶ昔のことになるが、とある煙草でテレビCMのアイディアを募集していた。その時に応募した作品をここに紹介する。もう二度と日の目を見ることはないだろう。もっともそれ以前に当時も落選だったのだが。

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ギリシャ


彼は苛立ちを覚えた。

この3日間、ずっと走り続けてきたが体力は限界にきている。その日のうちに町まで戻らないといけない。太陽はすでに頭上高いところまで来ている。山のふもとでは山賊に不意打ちされてなんとか撃退はしたものの怪我を負ってしまった。この山の頂まではやっと上ることができたが目的地までは遥かに遠い道のりである。彼は絶望の中で岩場に腰を下ろした。あきらめてしまおうか、そんな思いが頭をよぎった。

僕は彼に歩み寄り、一本の煙草を差し出した。

彼はゆっくりと吸い込んで煙を吐き出した。彼の目は煙草の煙を追いかける。

するとその時、幾重にも連なる山々の向こうに彼が目指すコロセウムが小さくだが確かに見えた。彼は岩場からすっくと立ちあがった。そして太陽を見あげる。まだ半日の時間がある。きっと間に合うはずだ。彼は僕に向かって一礼すると大きく息を吸い込んだ。そして勢いよく山道を駆け下りて行った。

そう、親友との約束を守るために。

彼の名は、メロス。


◆日本編


彼は苛立ちを覚えた。

時は師走、雪が降る夜であった。彼は大きな屋敷の扉の前に立ってそれをいまかいまかと待っていた。40数名の臣下たちが屋敷の中にいる敵を探している。彼が待っていたのは首尾よく敵をみつけときに鳴らすことになっている笛の音であった。臣下たちが屋敷に入ってからすでに2時間近く過ぎている。夜が明ける前に敵を見つけ出さないとここ数年の努力がすべて水の泡になる。故郷でそれを信じて待ち続ける者たちにも申し訳が立たない。

僕は彼に歩み寄って一本の煙草を差し出した。

彼はゆっくりと吸いこんで煙を吐き出した。彼の眼は煙草の煙を追いかける。

冬の漆黒の夜空に無数の星が美しく輝いている。彼は思う。私が焦ってどうなるというのか。私には苦楽を共にしてきた大切な臣下たちがいる。彼らを信頼するしかないのだ、と。

するとその時、屋敷の中から敵の発見を知らせる笛の音が冬空に鳴り響いた。笛の数は次第に増えていく。彼はおおきくうなずいた。そして僕に向かって一礼すると歩き出して屋敷の扉の中へと消えていった。

そう、いわれのない汚名を頂戴して果てた主君の無念を晴らすために。

彼の名は、大石内蔵助