林檎(第2回)

僕たち3人はプレハブ小屋の1階に通された。そこは食堂で30人ほどが食事ができるスペースだった。安川さんは僕たちにテーブルに座るように勧めると厨房に入って行った。しばらくして女性二人を従えて出てきた。どうやら夕食の準備をしていたらしい。安川さんは僕たちに二人を紹介した。

「この二人が食事の用意とか洗濯とかしてくれる鈴木さんと山下さん。こちらは今日からここで働くアルバイトの学生さんだ」

鈴木さんは恰幅のいいおばさん、山下さんは日焼けしたまだ20代と思われる健康そうなお姉さんという感じだった。あとから聞いたのだが鈴木さんは笹山社長の古くからの友人で一人息子も設計事務所のほうで仕事をしているらしい。山下さんもやはり父親が同じ県内の別の現場で働いていいるらしかった。こういう仕事はどうしても身内で固めるしかないのだ、ということが後になって分かった。

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二人を厨房に帰らせると安川さんは僕たちに紙を配ってそれに記入するように言った。それはごく簡単な用紙で、氏名と住所のほかに緊急連絡先と血液型を書くだけだった。血液型の欄があることで僕は先行きにかすかな不安を覚えた。安川さんは用紙を事務的に回収しながら、

「ちゃんと両親には話してきたんだろうな」

と念を押した。それからここでの生活を手なれた風に説明してくれた。この建物の1階が食堂で3食とも女性二人が賄ってくれること、洗濯ものは彼女たちに頼めばいい事、2階で寝泊まりすること。風呂はないが、シャワーが建屋の裏にあること、週末には街に出て銭湯に通う人が多い事、などだった。安川さんは一緒に寝泊まりしているが、女性たちは家が近所なのでバスで通ってきているとのことだった。

安川さんはここでみんなが仕事から戻るまで待つように言って自分は仕事場に向かっていった。僕たちが無言でテーブルに座っていると山下さんが麦茶を持ってきてくれた。
午後4時を回ったころだったがまだ日は高かった。山本が僕に言った。

「お前、本当に両親には話してあるのか?」

「いや、話していない」
「やっぱりな。彼女はなんと言ってた?」
「とりあえず心配してたよ。さっきの連絡先も彼女にしておいた」

彼女は学校の同級生だった。工事現場を見るのが好きだというちょっと変わった娘で休みの日ともなると彼女に連れられて東京郊外の建設現場を見に行った。どこでどういう工事が行われているかをなぜかよく知っていた。だから今回僕がこのアルバイトに応じたことも自分の責任のように感じていてらしくかなり心配していた。実はまんざら無関係というわけではなかったのだが。

僕たちがとりとめもない話をしているうちに日は傾いてサイレンの音が鳴り響いた。建物の裏手でシャワーの水しぶきの音と、順番を待つ人たちの笑い声が聞こえてきた。しばらくして小太りの男がステテコ一丁のいでたちでタオルで濡れた髪をぬぐいながら1階の食堂に現れた。

「純ちゃん、めし!」

その男は奥にある洗濯物の大きなかごに服を投げ込んで、食事のお盆を受け取ると近くの席に座って勢いよく食べ始めた。僕たちがいることにはまるで無頓着だった。しばらくしてみんなが食堂に入ってきて食堂はいっぱいになった。安川さんは僕たちを呼んでみんなに紹介した。誰しも食べるのに夢中で振り向きもしなかった。

その晩、2階で僕たちの歓迎会という名目の酒盛りが盛大に催された。こんなことは口実にすぎなくて、何か特別なことをするわけでもなくひたすら飲んで騒ぐだけだった。2階の大部屋の隅には布団と個人用のバッグが並んでいて中央に3つの大きな丸い座ができるのだ。座の真ん中には焼酎の一升びんと質素なつまみ類が新聞の上に無造作に置かれている。僕たち3人は顔を見合わせてとりあえず、一番近くの座に加わって座った。隣に座った白髪交じりの初老の人が僕に名前を聞いた。彼は普通の湯飲みを手にすると黒のマジックで僕の名前を湯飲みにひらがなで書いて、これをつかえや、と言って渡した。そして一升びんをかかえて、なみなみと焼酎を注いだ。

みんなの酒の話題はと言えば、故郷の話、残してきた家族の話、そして女の話が多かった。地方訛りの言葉が多く飛び交い、声のやたら大きい人もいれば逆に聞き取れないほど声の小さい人もいてひどく疲れた。何度も聞きなおさないといけなかったがそれをあまり繰り返すと気分を害して何もしゃべらなくなる人もいた。僕は勧められるままに焼酎をあおっていると、あちこちからお呼びがかかり愛想笑いで飲み続けているうちに酩酊の底に落ち込んでいった。

夜が更けると部屋の奥のほうから布団が並び始めた。まだ酒を飲んでいる人たちはどんどん入り口近くに追いやられていく。僕はうつろな頭で友人の山本たちを探したが見当たらず、もう寝てしまっているようだった。僕も限界に来ていて背中を壁にもたれながら、相変わらずのペースで飲み騒ぐ一団をぼんやりみていた。名前はあとから知ったのだが、緑川さんという一番若い人が僕に布団を敷いてくれた。横になるとすぐに意識を失った。