林檎(第5回)
土曜日は午前中で仕事は終わりである。一日と半日は大きな違いだ。午前中だけだと半日分の体力が残っているという感じだった。僕たちが部屋に戻ってくると、現場監督の青木さんが金庫を片手に現れた。土曜日は流れ人夫の僕たちにとってはうれしい給料日である。みんなが一列に並んだ。僕も緑川さんの後ろにならんだ。みんなそれまでには見たこともないような慇懃な態度で給料袋を受け取っていた。僕は山本達の3日分の給料も受け取った。
夕方になると緑川さんが立ち上っていった。
「さて、いくか」
部屋のあちこちからおう、と応じる声があがって数人が外出の支度を始めた。部屋に一つしかない、鏡の前に並んで身なりを確認している。緑川さんが来て言った。
「お前もいかねえか」
僕が行き先を尋ねると、
「ベーナスだよ」
「ベーナスって何ですか」
「これだよ」
と言って緑川さんは右手のこぶしで淫猥な型を作った。
「え、でもお金かかるんでしょ?」
緑川さんは意地悪そうに僕の顔を覗き込んで、
「さては、女が怖いんだろ?」
「いや、そういうわけでは・・・」
僕がもじもじしていると、
「まあ、いいや、他に行くやつはいねえか?」
元気のいい一団が部屋からいなくなると部屋は打って変わって静かになった。吉田爺さんは布団をしきはじめた。安川さんが言った。
「おい、俺たちと風呂にいかないか?」
「はあ?」
僕が怪訝そうな顔をしたのを見ると安川さんは笑って言った。
「俺たちは風呂と言っても普通の銭湯さ」
安川さんは吉田爺さんのそばによって耳打ちした。吉田爺さんもゆっくりと立ち上がった。僕たちは5人で山道を降りて県道まででてそこからバスに乗った。バスの車中で吉田爺さんは乗り合わせた婦人に優先席を譲ってもらった。仕事ぶりからは想像できない光景だった。
久しぶりの広い風呂は気持ちよかった。吉田爺さんもご満悦の様子だった。僕は体を洗いながら鏡をのぞくとくっきりとTシャツのあとを残して真っ黒に日焼けしていた。顔も浅黒く焼けてひげも伸び放題でまるで別人だった。僕はさきに上がって脱衣場の椅子に腰かけていると、浴室内の吉田爺さんが見えた。何かをしているようだった。よく見ると、浴槽を自分のタオルでごしごしと拭いているのだった。僕はあっけにとられてそれを見ていた。
僕たちは銭湯を出てから、銭湯のはす向かいにある焼き鳥屋でビールを飲んだ。吉田爺さんも一緒だった。僕が林檎のお礼を言うと、笑ってくれた。初めて見る笑顔だった。
僕たちがほろ酔い加減で部屋に戻るとすでに酒盛りが始まっていた。緑川さんたちも帰っていてその晩の武勇伝を語り合っていた。聞いたこともない言葉が飛び交っていた。翌週の土曜日には断りきれずに、緑川さんたちに連れられていった。「べーナス」とは「ヴィーナス」のことだった。駅前の小さな歓楽街のまたその片隅でひっそりと営業している店だった。
日曜日、僕は山本達の3日分の給料を郵送するために一人で街に出た。駅前の通りに来るのは久しぶりだったが、初めて降り立った時のような暗鬱とした気分ではなかった。喫茶店を見つけて入った。僕と同世代の女性店員がいたが、一人の時間を持て余して店を出て仲間たちの待つあの店へと向かった。いずれにしてもこの町で僕を迎えてくれるのは焼酎のにおいの充満したあの部屋しかなかったでのある。
バス停で降りると、反対側のバス停に吉田爺さんが立っていた。黒い大きなバッグを抱えている。僕をみつけると手を振っていた。僕も手を振ったが、あまり気にも留めずに砂利道を登って小屋に向かった。2階の部屋では安川さんがもう一人と将棋をさしていた。僕を見るなり、
「今、吉田の親父とすれ違ったか?」
「はい、バス停で見かけました」
「そりゃよかった。林檎のこと、何か話してた?」
「いいえ」
「なんだそうか。吉田さんは今日ここを引き上げて明日からまた別な飯場暮らしだ。どこだっていってたかなあ」
「西だよ、確か和歌山。大阪に近いんで嬉しそうだったよ」
安川さんの将棋の相手が答えた。僕は尋ねた。
「林檎のことってなんでしょうか」
「おれにもわからねえ。お前さんと林檎の話をしたがってたよ」
僕は部屋を飛びだしてバス停まで駆けて行ったが、すでにバスは出た後で吉田爺さんの姿はなかった。