林檎(第6回)
とうとうこの仕事も終わりが近づいてきた。一輪車の運転も自分でもわかるくらい上達した。いろいろな人から「腰が入ってきたな」と言われるようになった。
最後の晩は、僕を含めてこの飯場をあとにする人たちの送別会だった。とは言っても普段と何も変わらず、焼酎を飲んで騒ぐだけだった。少しだけ違うと言えば、現場監督の青木さん、そして女性の鈴木さん、山下さんも参加して名産品といわれる川魚の山椒煮を振舞ってくれたことである。安川さんが茶碗を片手に僕の隣に座った。僕はマジックで僕の名前が書かれた茶碗で焼酎をあおった。
「お前さんが運んだ土の上に、もうすぐでっかいマンションが建つんだ。ことしの冬には鉄骨が大方組み上がっているだろう。」
隣ではすっかり酔った緑川さんがいい調子で歌を歌い始めていた。緑川さんも今日が最後で明日からまた別な場所にいくというのに感傷のかけらもなかった。でも相変わらず、ということが妙に気分が落ち着いたのも確かである。ただ、例の手紙の一件で大喧嘩をしたはずの二人が肩をたたき合っているのを見たときはさすがに胸が熱くなった。
僕が勝手に感傷に浸っていると緑川さんが僕の肩に手をまわしてきた。ほとんど酩酊状態である。
「おまえ、こないだベーナスでやらしてもらえなかったそうじゃねえか」
「はあ?」
僕はとぼけたつもりだったがだめだった。
「だって、ミホに聞いたもんね」
僕は『ねえ、僕。そろそろ時間だけどどうする?ここからは延長料金』という事務的な口調を思い出していた。緑川さんが畳み込んで言った。
「ああいうところはな、お前さんみたいな新顔が来ると世間話をしてできるだけラクをしようとするんだよ。覚えときな」
安川さんが大声を出して笑った。周りのみんなも笑った。遠くで聞いてた女性たちも笑っていた。そして僕も笑った。
翌日は快晴だったが、盆を過ぎて日差しも幾分和らいでいる。昨晩は少し飲みすぎで僕が目を覚ました時には約半分の人たちはいなくなっていた。安川さんが途中まで一緒に行こうと誘ってくれた。僕は荷物をまとめて別れの挨拶をするとみな口々にこういった。
「もう、戻ってくるんじゃねえぞ」
安川さんがこんなことを話してくれた。
「俺たちはいつもあんな風に『もう戻ってくるな』と言い合うんだ。でも、いつか流れ流れてまた一緒に仕事をすることになるんだよ。吉田の親父さんもそう。ある日、急にフラっといなくなるんだけど、また戻ってきてしまうんだ。ここにというわけではない。みんながいる場所にね」
僕はまた別な街の銭湯で自分の入った後の浴槽を洗っている吉田さんの姿を想像した。
事務所に立ち寄るという安川さんと別れて僕は駅の上りのホームに立っていた。つらいだけの日々が妙に懐かしく思い出され、おそらく2度と会うことのないみんなの顔と安川さんの最後の言葉をかみしめていた。そして振り回されっぱなしだったここでの生活のことを早く恋人に話してあげたいと思った。工事現場を見ることが大好きで、吉田さんが僕にくれた林檎の果実のような恋人に。